日本語はさっぱりの私ですが、 黒岩トキさんが開口一番に何と言ったかはわかります。「あんた、背が高いねぇ!」
私が「大女」なら、彼女はまさに「小さな妖精」そのものだわ――背丈は150センチ位かしら。白い日よけ帽と、花柄模様のズボンとエプロンが、彼女の可憐な上品さを一層引き立たせています。小さな手にはピンク色のゴム手袋をはめて、まるで今からお皿洗いでもするかような格好です。
嬬恋の畑で作業をする黒岩トキさんを目指して、私たちの車は狭い山道を走り続けました。まだ冬の眠りから覚めていない羽を広げたような松林を通り抜けて、延々と続く坂道を登り、ようやく車が止まると、黒岩トキさんはそこにいました――たった独りで、海抜1,200メートルのこの地に腰をかがめて。その背中には絶え間なく風が吹きつけていました。もちろん、ここには洗うべきお皿なんてありません。トキさんは日本アルプスの冬を生き抜いたニンジンの取り入れの真っ最中です。一通りの自己紹介が済むと、休めた手をまた動かし始めます。
トキさんはまるでさりげなく祈りをささげるかのように土の上にひざまずいて、66年の年輪が刻まれた手で、道具も使わずに丹念にニンジンを掘っていきます。ニンジンの頭の両側の土を掻くように掘り、キュッキュッと揺すると、するりと引き抜いて、ニンジンの小さな山にポンと投げ込み、次に進みます。

今日は4月24日。ほんの2週間前に雪が消えたばかりの畑ですが、ところどころは収穫が間に合わなかったようです。腹ぺこのネズミたちが、冬の間は雪の下に隠れていた10アールもある食糧の宝庫を嗅ぎ付け食べちらかしていました。でも、そんなことに気をとられている暇はないとよ――その程度はネズミさんたちが食べる分だと思って、大目に見てあげんとね――と。トキさんはまるでさりげなく祈りをささげるかのように土の上にひざまずいて、66年の年輪が刻まれた手で、道具も使わずに丹念にニンジンを掘っていきます。ニンジンの頭の両側の土を掻くように掘り、キュッキュッと揺すると、するりと引き抜いて、ニンジンの小さな山にポンと投げ込み、次に進みます。
ここは私が今までに見た中で一番孤独な農場だと言えるでしょう。ぐるりと遠くを見回しても目に映るものといえば、標高2,568メートルの浅間山だけ、今日は、重く厚い雲の下に孤高に聳えています。山頂近くの斜面の樣子から、かつての嬬恋村全体の姿をうかがい知ることができます。常緑樹に鬱蒼と覆われた山の斜面は、その高さゆえに開拓の手も及んでいません。けれども目を下の方へ転じると原生の自然は消え失せて、風景は白い粉雪を被った木々から、ある線を境に黒く露出した土へと一変します。どこか近くの天空から巨大な手がスゥーッと伸びてきて、大地の縁に切り込みを入れ、地表を細長く剥ぎ取っていってしまう光景が脳裏に浮かんできます。
実際に起きたことも、私の想像とさほどかけ離れていないようです。1961年、日本政府は農業の近代化を目指して「農業基本法」を公布しました。1966年、「野菜生産出荷安定法」、通称“野菜法”が公布されると、浅間山のふもとにあって真夏でも気温が30度を越えることはめったにない、日本でも数少ないこの地域は、その冷涼さゆえにキャベツの「指定産地」とされました。
農家たちはその政策に素直に従って、それまでの作付けを指定野菜に転換しました。一方、政府はと言えば、森林の下にある肥沃な火山灰土をキャベツの耕作地に転用しようと、森林開拓を推し進めました。その結果、一帯の森林は壊滅してしまったのです。1975年には、800ヘクタール以上の作付け転換が完了し、同年、全2,000ヘクタールの畑から13万トンものキャベツが湧き出すかのように産出されたのです。
農家がキャベツ生産に移行したのは、政府の奨励策――国有地の払い下げと補助金の交付――が直接的な誘因ですが、さらにまたその方針に従うことによって、販路の提供や政府支援の技術援助といった恩恵を得るためでもあったのです。それらの巧みに仕組まれた政策により、組織的なやり方が大変うまく運び、1990年から2001年にかけて「土地改良」の第2次国営農地開発事業が行われ、その結果さらに400ヘクタールの農地が造成されました。
現在、周囲を山に囲まれた大地を覆い尽くしている慣行農業のキャベツ畑はすべて、まったく同じ生産サイクルのタイミングで動いていて、その正確さは時計が合わせられそうな程です。4月24日、視界には一面に、耕し終わって作付けを待つばかりの黒土が剥き出しの畑が、まるで黒い布を接ぎあわせたかのように延々と何キロも広がっています。そんな畑が何百枚も並ぶ真っ直中、トキさんがお世話するするえり抜きの畑が一枚、そこにあるのです。一方、この地域より標高が低い町の方はと言うと、昨日キャベツの苗がすべて植え付けられたばかりで、その町一帯の畑は皆、うっすらと灰色と緑色のしま模様に見えます。聞くところによると、日本の高校の試験には、国内のキャベツの産地を尋ねる問題が出るそうです。もし生徒が、より広い地域を指す「群馬」という県名で答えたら、それは誤りです。正解は「嬬恋」――それ以外に正解はありません。

嬬恋では「キャベツ」とは、もはや単なる一作物ではなく、嬬恋を代表する作物であり、人々の生活を支えるものの代名詞となっているのです。この地味で質素な山村にもかかわらず、マンホールのふたには、見事な田園風景がスチールの浮き彫りで装飾されています。その絵の前景には、キャベツが二つ描かれています。生き生きとした葉がまん丸にぎっしりと巻いていて、誇らしげに鎮座しています。人の姿はどこにも描かれていません。
* * *
予想通り、この大量に栄養分を必要とするキャベツばかりを連作することによって、肥沃だった火山灰土でさえあっという間に地力を奪い取られてしまいました。その対策として、政府は早い時期から、農家に化学肥料を導入するという解決法を提示してきました。それだけでも事態を悪化させるのに十分だったでしょう。しかし、事態はさらに悪化しました。米国製のNKP(窒素・リン・カリウム)肥料を輸入する際、積荷の中にキャベツの害虫コナガが紛れ込んでいたらしいのです。それ以前は、もともとその土地に生息していた害虫が外側の葉をかじる程度で、農家にとって厄介者ではあっても、損害を被るというほどではありませんでした。それに対してこのコナガは、キャベツの芯に達するような穴を開けてしまいます。しかも、見渡す限りコナガの大好物だらけのこの地域一帯に大繁殖したのです。かくして殺虫剤が使われることになりました――それも大量に。
もし、その問題について嫌がらずに語ってくれる地元の人に出会えたら、農薬の悪臭が空気に充満している夏の間は、出来るだけ屋内にとどまるようにと、真っ先に警告してくれる筈です。嬬恋は作物の生育期が短いので、失敗は禁物です。そこで農家は、2カ月の間に殺虫剤を5回、定期的に散布するわけです。かつての森林土は浸食が進み、その緩んだ土壌に農薬を噴霧すれば、それはそっくりそのまま当地の水の大汚染源となります。それだけでなく、化学肥料も農薬も利根川が下流へと運んでしまうのですが、その水は関東地域(首都圏)の主要な水源となっているのです。
「水源の汚染」と「山間の生態環境の破壊」という二つの理由で、日本のマスコミは嬬恋のキャベツ農場を糾弾しました。しかし、事態は何ら変わることはありませんでした。なぜなら過去30年間に群馬県から3人も総理大臣(福田、中曽根、小渕の3氏)が出たからだ、というのが大勢の見方です。彼ら政治家の関心は、キャベツ作りしか生活の糧のない、自由を奪われた農家ばかりの有権者のご機嫌を取ることなのです。農家の人たちは、慣行農業のキャベツ作りに欠かせないとされている農薬や化学肥料を好んで使っているのではありません。ただ、それに替わる術を知らないのです。実際、農薬を使わないような農家は害虫を繁殖させるので、地域一帯に害を及ぼすのだ、と信じている農家が多いのです。
黒岩トキさんも、長い間そう思っていました。他の農家に歩調をそろえて、お上の命令に従ってきました。ところが、トキさんの一人息子、勉さんは独自の考えを持っていました――農薬を止めれば生活が脅かされるかもしれない、しかし使い続ければ命が危ない――と。
その証拠は否定できません。地元の農家の人たちと昼食を共にした時の会話が行き着くのはいつも、皮膚にできる原因不明の黒い斑点や、皮膚の内側で内攻する黒い腫瘍や、胃癌や神経障害の話題ばかりでした。嬬恋の住民なら誰でも、農薬使用が原因で亡くなったと思われる知り合いを少なくても1人、大抵はもっと多くの人を知っています。そうしたことから、1991年に両親の反対を押し切って、黒岩家の若者は秀明自然農法を始めました。
それから10年後、若者は癌に冒され、37歳でこの世を去りました。
さて、黒岩トキさんは生来、流れに逆らって生きるタイプの人ではありません。嬬恋村の農家に生まれ育ち、今までずっとこの村で生活してきました。カウボーイと駆け落ちをするとか、ロザンゼルス行きの貨物列車に飛び乗るとか、村から飛び出して人と違うことをしようなどと考えることもなく生きてきました。けれども、息子の死に直面して、トキさんは息子の夢を絶やすことなく生かし続けていくことが母親としての義務だと強く思い、例えどんな流れに逆らうことになろうとも、それを乗り越えていこうと決心しました。そして亡き息子から4ヘクタールの畑を引き継ぎ、息子が夢を託した秀明自然農法を続けました。
それから3年、今日もまたトキさんは、雪解け間もない地面からニンジンを引き抜いています。普段と変わらず黙々と…

一つ旗の下に集団行動をとっているこの農村社会において、農家が独自の道を歩むというだけでも大変なことです。まして男性優位の文化的風土の中で、一人の女性が独立して自分の意志を貫くことは、並大抵ではありません。しかも、この嬬恋の厳しい条件の中で――雨水が農薬を伴って農地に流れ込み、表土を流し去ってしまう上に、昼夜で14度も差のある気温、おびただしい数の害虫の真っ直中で――農薬であれ有機資材であれ、作物を守ってくれるものを何も使わずに、4ヘクタールもの畑をたった一人でやっていくなんて。
当初トキさんは、化学農法に取って代わる唯一の手段は、自分の肉体労働しかないと考えていましたが、それは到底できない芸当ともいえるものでした。そんなとき、都会の消費者たちが自ら志願して手伝いに来てくれるようになったのです。
トキさんが畑で私に出迎えの挨拶をしていると、私とワゴン車に同乗していた人たちは、次々と車から飛び出し、土の黒々とした畑に散って行きました。東京という都会に住む人たちが、スエットパンツと雨ガッパに着替えて、農作業をする人たちに変身したのです。こちらで3人がニンジンを掘り、あちらには2人、もう1人は一輪車を取りに行ってオレンジ色に輝く宝物をそれに積んで、トキさんの小さなダイハツのトラックへと運びます。

トキさんが息子さんの後を引き継いで秀明自然農法を一人でやっている、と秀明の情報ルートから口伝えで広まって以来ずっと、東京の人々が手伝いに来るようになりました。一番手の人たちは、いきなりやって来て突如畑に現れ、手伝いを申し出たのでした。嬬恋という因習的な農業社会しか知らないために、最初は面食らってしまったトキさんですが、すぐに心から感謝しました。その後も引き続き彼らはシーズンになるとやって来て、草取りをしたり、手で虫を取ったりなど、その日に人手が必要なことなら何でも手伝います。決して報酬をもらったりしません。もし収穫物があれば、トキさんがCSAへ販売する分だけを引き受けて、東京の集配所へと運ぶのです。
消費者で作るこのコミュニティーは、トキさんに労働力を提供するだけでなく、安定した市場も提供しました。さらに、トキさんはCSAに加わって、多くの農家と連携するその立場から、量は少なくても種類を豊富に取り混ぜて販売できるのです。現在、トキさんはキャベツの他にも、ニンジン、大根、大豆を栽培しています。この冬には、消費者の人たちから寄せられた米ぬかを使って、エノキダケを試験的に作ってみました。仮に、見栄え・量ともに十分とはいえないようなものができたとしても必ず売れる、と分かっていたからこそできた冒険です。
もちろん、トキさんと消費者の関係は一方通行というわけではありません。率直に言って、もしその関係が一方的なものだったら、うまくはいかないでしょう。手伝いに来る消費者は、口にする野菜が安全で、栄養価が高く、かつ、信奉する哲学に沿って作られている、という確信を得ることができるのです。さらに、自分たちが食べる食物について知ることもできます――どこで生産され、どんな風に栽培されたのかといったことも理解するようになり、その野菜を自分の手で育てた実感を多少なりとも持てるようになります。コンクリートとネオンが無秩序に広がる大都会の東京から出て来た人にとって、そうした体験はお金には替えられない価値があるのです。
* * *
秀明の人たちに支えられて、トキさんは逆境を切り抜けることができました。しかし、トキさんの成功は、秀明の枠をも越えたところにありました。農薬や化学肥料を使用しないという普通と異なる手段を用いることで、地元の農家から孤立してしまうのではなく、彼らと手をつないで進んでいける共通の目標を見つけたのです。
最近、トキさんと友達の女性4人は、地元の子供たちの身を心配して、手を組むことにしました。その心配とは――学校給食では豆腐と納豆が出されますが、いずれも米国から輸入した大豆を原料に使っているので、遺伝子組み換え大豆が混入している恐れが多分にある――ということでした。そこで5人は共同で出資し、地域の建物を小さな大豆食品工場へと改造しました。自分のところで穫れた大豆は各自が別々に加工して、帳簿も各自別々につけます。ただし、毎回の製造作業は、5人全員で分担して一緒に行います。今年は、学校へかなりの量の豆腐と納豆を供給する予定で、そうなれば畑以外でいくらかの副収入が得られるようになるでしょう。

私が通訳のアリスを交えてトキさんと工場内で話していると、仲間の一人が納豆のパックにラベルを貼り付ける作業をしている部屋から、こちらの方を見て微笑みかけます。後で分かったことですが、最初のころトキさんは、秀明自然農法をしていることで仲間外れにされていました。そういうわけで当初トキさんにはそれほど明るい希望が持てなかったのですが、その後、身近にいる女性仲間は、秀明自然農法を少しずつ受け入れるようになりました。一つには、簡易の味覚テストを行ったところ、トキさんの豆腐が一番美味しいと証明されたことがあげられます。(これは工場で所有する甘味測定装置によって得られた検査結果です。)
工場見学の後、農家の人たちが小さなトラクターに乗って、形も大きさも全く同じように揃ったキャベツの苗を植え付ける様子を見ながら、アリスと私が村の人気のない小道をそぞろに散歩していると、秀明自然農法ネットワークで理事長を務める出口公一氏が歩み寄ってきて、上機嫌で声を弾ませながら(日本語だけれど私にも上機嫌だと分かります)、アリスに最新のうれしいニュースを伝えます。トキさんと一緒に工場を営む女性仲間は、自然農法への切り替えを以前から考えていたのですが、リスクを恐れて、踏み切れないでいたらしいのです。ところが今日の午後、アリスと私が工場を去った後に、彼女たちは、私たちも喜んで一緒に自然農法をしていきます、とトキさんに伝えたそうです。そのあまりのタイミングの良さは偶然かもしれませんが、アリスは、それは偶然ではないというのです。
「アメリカからはるばるやって来て、あなたがトキさんと話すのを見たことが、物を言ったのよ」と、随分大胆な意見です。
確かに、ある面ではそうでしょう。今回の私の訪問によって証明されたのですから――嬬恋という限られた社会の外に別の世界がある――他の場所にも農薬や化学肥料のわなから脱け出す道を見つけた人たちがいる、そして、トキさんの奮闘は東京を越えて海を越えたはるか遠方の人たちから支持されている――と。それでもなお、この限られた範囲の農村社会で起こることはどんなことであれ、結局この社会の内側から起こることなのです。世界は広くて刺激に満ちあふれた場所ですが、しかしある意味、この村の中で起こることは旧態依然であれ現状に対する変革であれ、キャベツが描かれたマンホールのふたがあるこの村の人たちが自ら起こしていくことなのです。
ともあれ、道を歩いている私たちは足を進めながら、その知らせに胸を弾ませます。すると、アリスと出口氏が村の墓地の前で足を止め、静かに何か日本語で話します。その墓地は鋭く方形にかたどられた黒い石塔の墓が並ぶ庭園で、墓石はどれもこれも堂々として、周囲を見渡すようにそびえ立っています。しかし、アリスから説明を聞いた私は思わず息を呑みました。これらの墓石にはどれも同じ姓が刻まれているというのです――「黒岩家」と。
この墓標が暗示するものの捉え方は、大きく分かれるところかもしれません。――「黒岩」という人々が共に背負う暗く悲しい運命なのか、それとも、「黒岩」という人々が彼らの心の中に生き抜くために必要な希望を溢れんばかりに増やしていくことを示すのか。カリフォルニアの自宅で机に向かってペンを執りつつも、私の考えは二つの間を揺れ動いています。前向きな方向に考えが落ち着こうとする度に、後ろ向きな考えに足を引っ張られます。でも結局、気づくのです――肝心なことは、万里を隔てたここアメリカの執筆室で私が「黒岩」の姓を持つ人たちの将来を憂うことではなく、「黒岩」を名乗るすべての人たちが、どう捉えるかなのだと。――黒岩トキさんが。他の「黒岩」を名乗る人たち皆が。豆腐工場で働く女性仲間の黒岩さんたちが。小型トラクターに乗ってただ機械的にキャベツを次々と畝に植え付けている黒岩さんという男性が・・・
今年はもしかすると、何か新しい生命が湧き出し芽吹くかもしれません。昨年の作物の命が消え去った涸れ井戸のようではあるけれど、疲弊しても今なお生きているその土から。
不精さや かき起こされし 春の雨
松尾芭蕉(1644年〜94年)
訳者注:病気がちの芭蕉は、晩年、病で心身ともに苦しい状態になりながら道を求めて旅を続けました。そして1691年(元禄4年)2月、今の三重県にあたる伊賀上野兄の家にて、この句を詠みました。芭蕉にとって旅とは物見遊山ではなく、求道の人生そのものだったと思われます。そして、元禄7年、その生涯を全うしたのです。
|