「我々の健康がことによると土と関連があるかもしれないという考え方は、極めて急進的なものだ。医学文献ではこのことはさほど論じられてこなかった。だからあなたのかかりつけの医者はこのことが大切だと思っていない。高校や大学でも教えてはいない。『私たちの健康は土と関係がありますか?』−と農務省の人間に訊くとする。『勿論』―と彼らは答えるだろう。でもそこからはずっと、私の結論と行き着く先が違う。食物から健康を得るためには、化学肥料を使って土の生産力を上げなければならないと、彼らは本当に信じているからだ。その姿勢が如何に馬鹿げているか、私は見せてやろうと思う。」
――J.I.ロデール著「オーガニック最前線」(1948年)より――
振り返ると、社会の改革に取り組む人は先駆者と呼ばれますが、その人たちも歴史の中にその姿を現し始めた頃は、愚か者、馬鹿者、異端者というあまり魅力のない呼び方をされるものです。しかし、先駆者と呼ばれようが、愚か者と呼ばれようが、それはつまり、私たちが慣れ親しんだものとは違うものをその人が提案してきたということなのです。J.I.ロデール氏は、北米で急速に拡大しつつあったアグリビジネスによる体制に対して、非化学農法を紹介したのですが、彼の主張が受け入れられる余地はまったくありませんでした。「農業で成功するには化学肥料、農薬、除草剤が必要」という考え方が論争を経ずしてまるで決め事であるかのごとく一般に広まったことから、オーガニック農業は間違った方法であると見なされたのです。
日本へ到着した最初の日に私はそのようなことを考えていたと思います。そして私は、秀明の信条に基づく新しい運動・秀明自然農法を実施している農場を訪ねていました。私は、秀明自然農法がどういうものなのか、その神秘な謎を解くために日本へ派遣されたのです。そしてそのためには実践可能な技術や具体的な事実、確かな数値データをアメリカへ持ち帰らねばなりませんでした。しかし、何時間という雲をつかむような、収穫のない質問と応答が繰り返され、私は行き詰り、座り込んでこう書き留めました。「これはきっと、私が外国人だから、あの人たちは個人的なことを話してくれないのかもしれないわ。それとも私の質問が不適切なせいかしら、それとも彼らの文化や秀明自然農法を理解できていないからかしら。でも、本音を言うと、私は実はこう考えてしまったのです――秀明自然農法はうまくいっていないのではないのか――と。」
ある意味、私の感じたことは正しかったのです。西洋的な慣行農法の物差しで評価しようとすると、秀明自然農法はあまり高く評価してもらえないでしょう。しかし秀明自然農法は、そのようなもので評価されることを目指して実践されているものではないのです。それは秀明自然農法が、乾地農法とかバイオインテンシブ農法のように、単に方法の異なるオーガニック農法の一つというわけではないからです。実際に秀明自然農法の支持者は人に説明するときにこう主張するでしょう――秀明自然農法とは、農法をいうのではないのです。秀明自然農法とは哲学なのです――と。
秀明自然農法の要点だけを抜粋すると、この農法は日本におけるオーガニックの一形態のように見えます――農薬や化学肥料の不使用、植物と土の力への信頼、自然に逆らわず協調する――にもかかわらず、これらの目に見える方針の奥にある根本原理は、掴みどころがないぐらい大きいのです。秀明自然農法の究極の目標は地上に天国を創造することなのです。そして事実、秀明自然農法は、自然が、自然そのものの中に存在する力――自然力――を発揮できるような環境にできるだけ近い体系の創造を目指しているのです。

秀明自然農法ネットワーク(SNN)の会員である農業者はその実践を通じて主張します。自然力が発揮できる環境を作り出すということは、土に余計なものは一切投入しない――植物性の液剤、肥料さえも投入しない――ことを意味するのだと。土には落葉、枯草のみを被覆するだけで、しかもそれは、土の温度と湿気を調節するためのみに使用されるのです。動物の排泄物を原料とした厩肥は使用しません。農家は各自、自然を観察しながら、利用できる方法を吟味します――それらは、虫であったり、雨であったり、トラクターであったり、ふかふかの土であったり、固い土であったりするのです。農家は土地の世話役・進捗係を担い、再生不可能な害を自然に与えないように、これらの方法を農作業の中に取り入れながら、できるだけ多くの作物を育てようとするのです。
秀明自然農法では農家により技術は千差万別ですが、ひとつ共通していることは、作物の収穫は、オーガニックや化学農法と同じ程度か、それらに及ばないことが少なからずあるということです。ここで、教えの本を閉じて、この農法は失敗作だと言って立ち去ってしまうこともできますが、けれども、J.I.ロデール氏の教訓を思い出して下さい。西洋の基準では秀明自然農法は理解し難いと思われるでしょうが、だからと言ってこの農法を間違っていると言っていいのでしょうか?
もし、秀明自然農法について私たちの質問の方が適切でないとしたら?
何が農業を成功させるかということを評価する場合、西洋では、昔からの商品取引の慣習に根ざした観点に基づいてそれを判断します。私たちなりに農業を意識し、努力を傾けても、私たちの物差しでは農業は商業基盤の活動の域を出ないのです。つまり、私たちの社会では、食物を売ってお金に換えるために、食物を育てているのです。
それに対して、秀明自然農法は、20世紀半ばの精神的指導者であり、日本における無農薬無化学肥料農業の先駆者であった岡田茂吉氏の教義から興りました。岡田茂吉氏は、農業とは信仰をその基盤として追及していくものだと農業のあり方の見直しを説いたのです。岡田茂吉氏のこのような教義においては、その哲学こそが農業に対する意欲を生み出すものであり、技術であり、成功するための方法なのです。
結論をいうならば、西洋の農業と秀明自然農法とでは、成功の物差しが違うのです。簡単に言うと、私たちの頭脳では、農業をお金を儲ける力があるかどうかで評価してしまうのです。一方、環境への意識が高い人たちは、大地を尊ぶ心がそこにあるかないかで農業を判断します。私たちは、生産性、結果的にどれくらいの収穫があったか、農産物の品質といったものに基づいて技術的評価を下します。私たちの市場で成功するためには、色が濃く、形が整っていて、風味豊かで、適当な大きさのものといったことが最も重要で――概して大きいものほど良いとされているのです。
このような見方をすると、秀明自然農法はどこも力不足に映ります。私たちの目には、秀明自然農法の自営農家は、ありふれた市場においてさえも競争力に欠け、概して生産量の低いもののように映ります。私たちの物差しではかると、秀明自然農法における土壌の生産能力や作物の質は、概して悪いように見えてしまうのです。
違う物差しでみたら
しかし、もし、作物の生産量を上げるという目標を、自然に近い体系を作るという目標に置き換えると、どうなるでしょうか?
もし、経済的な利潤の追求が二の次になり、世界を構成する四元素である地、水、風、火と調和を増していくことに重点を置いたら?
究極の成功が、地上天国が近づくように農業を行っていくことだと明確に打ち出すとしたら?
複雑極まりなく調整・管理された生産技術を構築することに目標を置くのではなく、むしろ、もっとシンプルに、そして自然への介入を最小限度にすることに置くとしたら?
すると、これらに対し、秀明自然農法が最も効果的なアプローチとなり、オーガニック農法はその過程の第一歩に過ぎないと言う事です。(そうなると、どううまくいっても、化学農法は選択肢にならないでしょう。)
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日本ではふもとの丘陵が、四方の海岸線へなだらかに伸び、市街地、住む人、農地を、その海岸線へと追いやっています。この認めざるをえない地形は人の手が入ることを拒み、人々はそれに従って生きることを強いられています。 |
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こういう見方に基づいて、成功の基準を見直すことは非現実的、と答えるのはいとも簡単なことです。地上天国といっても本質的には漠然としたものですし、さらに重要なことに、農家は報酬を得て生計を立てていかなければなりません。全くその通りです。秀明自然農法が、食べ物でお金を稼ぐという普通の仕組みの中でやっていけるとは誰も言いませんでした。しかし、それゆえに、秀明は世間の慣習に代わるべき、独自の仕組みを明確に打ちだそうとしているのです。このような最終目標を目指す急進的な活動と、米国の地元産オーガニック・フード運動による新進の経済システムとは似ているように見えます。が、しかし、秀明自然農法はまさしく米国で起こっている運動の次の段階を探求しているのです。
秀明自然農法の支持者は既存の食糧生産体系の中に留まるのではなく、全く新しい体系作りを目指しています。そこでは、人の心が大切であって――金銭面は、結果として後からついてくるものだということなのです。
物質中心の現代の世の中で、秀明にはそのようなことを可能たらしめる他との大きな違いがあります。日本には1,290人の秀明自然農法農家がいますが、彼らが売り場や畑で一人になるということはほとんどありません。というのは、消費者もまた秀明自然農法ネットワーク(SNN)の会員だからです。生産者同様、消費者も精神的なものを求めて農業に携わり、普段の職業的身分から脱して、CSAの会員としての一役を担います。彼らの想い描くCSAのシステムにおいて顧客になるということは、ただ単に食べ物を買うだけではなく、CSAを組織化し、田圃に行って草取りを手伝い、時には自ら一農家となって農作業を行うということなのです。
秀明のCSAに加入している消費者は、商品選択の余地のない閉ざされたCSAという市場の中だけで活動しているように見えるかもしれません。しかし、本当のところは、彼らは市場の概念を刷新したのです――つまり、生産者と消費者が共に地上に天国を創造するという目標を共有する秀明のCSAの中では長年、生産者と消費者を区別していた線がほとんどなくなっているのです。
現代における食糧生産のあり方が農業者も消費者も含めた地域社会全体の取り組みとなった場合どのようなことが起こってくるでしょうか? 今回のシリーズではその輪郭を浮き彫りにし、実際どのように機能しているのかを説明します。
しかし、秀明自然農法の根底にあるパラダイムシフト(価値観の変革)を理解するためには、私たちは、秀明自然農法を取り巻く世界、秀明自然農法が創造しようとしている世界、そして秀明自然農法がどのようにしてそれを実現しようとしているのかということをまず理解しなければなりません。それでは最初に、秀明自然農法を取り巻く世界、すなわち、日本の国土そして歴史についてその概観を以下に著しますので、これから理解していきましょう。
日本の国土
日本文化の真髄は、自然が身近な存在だということにあります。料理とは…単純に言ってしまえば、季節に対する強い思いがあって、それが形になったようなものです。
――辻静雄著「辻静雄の日本料理」(1980年)
日本の料理と農業に最も大きな影響を与えてきたものは、日本の国土そのものでした。日本列島は、北の端から南の端まで3,000キロメートルあります。不動の山脈はまるでファスナーを上げた時のように中央に横たわっています。山頂が氷で覆われていたり、ちょうど樹木の根際が広がっていくように、起伏する平野部へ裾野が伸びたりしています。ふもとの丘陵は、四方の海岸線へなだらかに伸び、市街地、住む人、農地を、その海岸線へと追いやっています。この認めざるをえない地形は人の手が入ることを拒み、人々はそれに従って生きることを強いられています。
最初の移住者は、アジア北部の気候の厳しい乾燥ステップ地帯から日本にやって来ました。アジア北部に比べると、日本は気候が穏やかで、肥沃な土地が広がっています。この変化により高められた感謝の念は、後に神道として形式が整えられていきました。この自然崇拝が食べ物への深い畏敬の念の土台となり、それが日本の伝統料理を特徴づけています。
食の世界やその他でも、純潔さと質素さといった価値観が、日本固有の国民意識の一部となりました。 |
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しかし、人口が増加するにつれ、土地そのものに限界が見え始めました。狭い島に山が迫っているため、居住に適しているのは国土のわずか29%、耕作に適しているのは約16%に過ぎないのです。更に16%といっても、アメリカのカリフォルニアや中西部で見られる平原のような地形は日本には滅多にないのです。初期の頃はもっと開けた土地があったのですが、次第に山の斜面や谷間のぎりぎりの土地も、可能であればどんどん耕作地として切り開かれていきました。
アメリカのように地平線に伸びる平坦な大地とは違い、日本人の農地の構想は、だいたい1反を1区画として始まったのです。今日の専業農家でさえ、全部合わせても1.2町程度の農地しか持っておらず、しかもそれぞれの農地が何キロも離れた様々な所に散在しているらしいのです。
このような小区画の農地により、今日に受け継がれている日本特有の農業が発達しました。農作業は土地の所有者が主に行い、手作業か、または小さな機械の使用による農作業がよく行われています。もし草取りをしないのならば、除草剤を散布します。動物は、労働力としても食肉用としても、全く重要視されてきませんでした。なぜなら土地が貴重で、家畜の飼料用穀物を生産するにはもったいないからです。国民は主食を米に頼っていました。そして米は、あらゆる穀物の中で面積あたりの食べ物のエネルギー量が最大なのです。(日本の集団主義の文化は、米に由来するとも言われます:先史以来、大きな労働力を要する米の栽培には、コミュニティの協同作業が必要とされてきました。米の栽培に生活のすべてがかかっていました。個人は一人では生き残れなかったのでしょう。)
輸入に頼らない島国の意識
天から与えられた気候条件の中で、日本の貴重な農地では、1年の間に休閑なく2,3種類の作物生産を行わなければならないのかもしれません。そして、日本では食料の余剰生産が行われることもありませんでした。日本と状況のよく似た他の国々は昔から輸入に頼っていましたが、日本の島国文化は、他国の物資に頼るよりも島国として自立することを選んだのです。
もともと物が十分にない状況の中にいるとどの様なことが起こるのか――そのことは、アメリカ人には理解しがたいことです。MFK・フィッシャーは、辻静雄の本の序文に、次のように著述しました。「私たちにとっては一度も教わったことがない経験ですが、日本の料理では、少しの量なのにたくさんあるように見せたり、少しのものからたくさんのものを作ったりするのです。それは禁欲と美的センスと、肉体の満足とが神秘的に組み合わさってできるのです。」
しかし日本では、いつの時代でも食物は本当に貴重なものでした。「日本では貴族でさえも、椀と皿を完全に綺麗にするように求められて、果物の種や魚の骨を着物の袂に隠すことにまでなったのである。」とラファエル・スタインバーグはその著「日本料理」の中で書いています。日本では食べ物の希少さが食べ物への深い感謝を生んできました。和食は簡素で重たくなく、材料を複雑に混ぜ合わせるよりも、一つ一つの食材そのものに注目します。実際に伝統料理の盛り付けは、黒豆が2つと大根の細切りか、小さな芋一切れが浮かんだおすましだけということが無いとは言えないのです。

このように質素を好む日本人の性質は、6世紀に中国から渡来した仏教により高められ、仏教の菜食主義によって、日常の食事から栄養価の高い動物性脂肪の食物を取り除くに至りました。では、動物性脂肪の摂取を控えるかわりに、別のものを豊かに食す文化に変わったかというと、そうはならなかったのです。日本はその気候が温暖であるにもかかわらず、仏教発祥の熱帯の国々とは異なり、辻静夫が言うような「温暖で寛大な気候に基づく多様性のある豊かな食文化」には変わらなかったのです。日本は仏教の質素だけを取り入れ、仏教発祥国と同じような豊かな食生活への変化を見送り、依然として、食の世界やその他でも、純潔さと質素さといった価値観が、日本固有の国民意識の一部となっていったのです。
日本固有文化の形成期
日本の初期における強力な隣国との外交関係の中で、永続的な影響を与えていたものは唯一仏教でした。料理世界で一番はっきりしているのはお茶と大豆が伝わったことですが、もっと影響を与えたのは恐らく中国の洗練された文化でしょう。中国で唐王朝が崩壊した時、日本では平安京(現在の京都)が興り、平安時代に入った日本は世界から文化・技術を取り入れることを止め、国を閉ざしてしまいました。何世紀も門戸を閉ざす陰で、日本は唐文化の洗練性を受け継ぎ、この原則を仰いで文化を発展させていきました。
その洗練性は優美な飾りつけという形で、食に取り入れられました。平安朝の宮中の食材は質素で、小作農の納屋にある食べ物とほとんど同じでしたが、盛り付けは傑出していました。紫色の縁が際だつ雪のように白いたこの刺身、3本の細い糸のような大根の飾り、彫刻作品のように盛り付けられたゼンマイ。400年の間に、これらの美意識は芸術として昇華していきました。
遂に平安朝は、武家に権力を奪われました。しかし、食べ物への畏敬の念は浸透していきました。なぜなら武士団は貴族と庶民によって構成されていたので、美意識に基づく思想は階級を超え、庶民にも浸透していったのです。
16世紀半ばに、ヨーロッパの商人と宣教師が渡来しました。(驚くことではありませんが)彼らの行為は野蛮だと解釈されました。しかし、100年も経たないうちに彼らが排斥されたのは、彼らの食べ方が下品だったからではなく、政治的理由によるものでした。彼らは封建制度にとって脅威に映ったからです。その封建制度は、農業による富と結びつき、支配階級の権力にとっての鍵となっていました。ヨーロッパ人を国外追放し、1638年、日本は再び鎖国をしました。そして、外国人を入国させないだけでなく日本人を出国させないようにしたのです。
1868年、明治天皇が政権に就くと、天皇は鎖国を止め世界への扉を開きました。しかし、世界情勢は、200年前とは大きく変貌していたのです。他の国々では、国際化の影響は緩やかに訪れてきましたが、ここ日本には、波のように襲い掛かってきました。日本の歴史の中で初めて、肉を食べることが地位の象徴となりました。洋服、洋食、西洋思想といったものが入ってきて――洗練されてはいるが繊細な日本固有の文化が急速に失われつつあることを今や誰もが感じていますが、それは明治における開国から始まったのです。
序論パート2は 第二次世界大戦後の圧倒的なテクノロジーと文化の変化によって、日本農業の性質は、すっかり様変わりしてしまいました。また、行き過ぎた西洋志向は、食に対する考え方や、農業の営みによる地球との関わり方を変えてしまう隙も作ってしまったのです。
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