2002年8月、カナダのブリティッシュコロンビア州ビクトリア市で開催された国際有機農業運動連盟(IFOAM)の世界会議に出席した時のことです。気がつくと私は日本有機農業研究会(JOAA)の一行に取り囲まれており、驚いて目を丸くしてしまいました。彼らは私に、日本へ来て「地域が支える農業(CSA)」(CSAとはコミュニティー・サポーティッド・アグリカルチャーの略で「地域が支える農業」。これには“地域が農業により支えられる”意味も込められています。)について講演してほしいと依頼して来ました。つまり、アジア各国から農業実習研修生を呼んで、オルタナティブ・マーケティング(もう一つの流通:生産者が、卸売業者や小売業者などが介在する一般流通市場を離れ、需要に応じたサービスを消費者に直接提供する流通システム)の研修を行うという企画への協力を要請されたのです。渡航と10日間の滞在費は全額負担するので、CSAについての公開講演をし、日本の農場を訪問して「提携」(日本版CSA)の農業者や会員との会合に出席してもらいたいという彼らの申し出は、私には到底断ることのできない内容のものでした。そして彼らの招待を大変光栄に感じました。
まず、日本の農業事情を少し説明しましょう。かつては大部分の食糧を自給してきた日本も、2001年には、穀物の72%、食物カロリーの60%を輸入するようになりました。しかし日本には、依然として3百万戸以上の農家が存在するのです。農家の所有する圃場は平均で1戸当たりわずか1ヘクタール前後という狭いもので、日本では、農地面積を1ヘクタール(約2.5エーカー)(1町)の10分の1に相当する10アール単位(1反単位)で測ります。農業人口は減少しつつあり、残っている農家の大半は65歳以上の高齢者です。農村からの急速な人口流出を鈍化させたのは、日本の伝統的な考え方でした。守られていない場合もありますが、日本では法律上(農業振興地域の整備に関する法律)、開発を目的とした優良農地の転用は禁止されています。さらに、農村地域の人々は、先祖から代々受け継いできた土地を手放すのは大きな恥になると考えています。
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訳者注
有吉佐和子:実際には、有吉佐和子さんが著した『複合汚染』が朝日新聞紙上で掲載されたのは1974年10月〜1975年6月であり、有機農業研究会発足から3〜4年後のことです)。 |
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1971年、無農薬、無添加の安全な食品を求めて活動する女性消費者グループ、農業研究者、生産農家の人々が中心となって、日本有機農業研究会(JOAA)が結成されました。当時の日本では、作家の有吉佐和子さんが、『沈黙の春』を著したレイチェル・カーソンのように、農薬の危険性について人々に警告を発していました。日本有機農業研究会の結成から2〜3年経つと、神戸の消費者会員は1,300名に膨らみ、彼らは農作業や食品の配送に進んで協力しました。日本有機農業研究会の歴史と「提携」運動とは密接に関わり合っています。日本有機農業研究会は、発足以来、その活動のほどんどの期間にわたって、 有機農産物の認証や政府が有機農業に関わったりすることには反対の立場を表明し続けてきており、地域自給、生産者と消費者の協力と信頼関係を活動理念に掲げてきました。政府の有機農業に対する政策をしぶしぶ認めるようになったのは、ごく最近のことです。現在の政府の政策では、有機農家が小売店を通じて販売しようとする場合、JAS認証制度による国の登録認定機関の認証を避けて通ることはできません。そこで日本有機農業研究会としては、単に国の政策に反対するのではなく、JAS規格が適正であるように積極的に働きかけて、国の措置が公正であるよう強く要求する役割を担っていると認識したからです。皆さん、ご存じでしたか?
林農園
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訳者注
人工遺物:過去の人間活動の痕跡を何らかの形で示しているもののうち、石器や土器のように加工された物を人工遺物という。なお、加工の後が見られないが食用のために運ばれ、後に遺棄された貝殻や獣骨を自然遺物という。
牛乳の散布:希釈せずに使用するか、もしくは、水で3倍に希釈)してアブラムシ対策とし(訳者注:アブラムシは、天気の晴れた午前中に牛乳を散布しておくと、その牛乳が乾いて膜がアブラムシを圧縮して駆除すると言われています。
ニンニクエキスの散布:ニンニクのエキスには殺菌効果があり、水や菜種油で希釈して散布します。また、ハダニもニンニクエキスを散布すると寄りつきにくいと言われています。これはニンニクの有効成分、特にアリインの酸化作用、アリシンの強烈な抗菌作用、スコルヂニンのホルモン作用の総合によるものであると考えられています。
磨り潰した害虫の懸濁液:林さんは、ヨトウムシの防除の方法として、病気で死んだヨトウムシを磨り潰した後、水に懸濁した液を散布しています。この散布により、ヨトウムシを防除することができます。林さんによると、この懸濁液をヨトウムシ以外、例えば青虫に散布しても防除効果がないことから、ヨトウムシに特異的な病原菌が駆除効果を担っているだろう、とのことです。 |
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日本に到着して、最初に視察したのは林重孝さんの圃場です。林さんは、2ヘクタールのこの農地を父親から譲り受けました。父親は、慣行農法に従って農業を営んでいましたが革新的な手法を取り入れる農業者でもありました。林さん一家は自分たちの土地で、2千年前の人工遺物。なお、加工の後が見られないが食用のために運ばれ、後に遺棄された貝殻や獣骨を自然遺物という。)を発見したそうです。重孝さんは父親が農薬を使用することに不満を抱いていました。そこで、金子美登(よしのり) さん(「提携」農家の先駆者の一人)のところで1年間有機農法を学んだ後、1980年に有機農家へ転向したのです。林さんの手法は――堆肥を用い、輪作を行って健康な土作りを行い、作付けの種類を豊富にして危機管理や害虫防除に備えるという、大変なじみ深いものです。林農園は、70〜80種類の野菜の栽培に加えて150羽の養鶏、味噌と漬物の加工製造を行い、また根菜類の貯蔵施設も備えています。害虫防除として林さんは、ミルクを散布(希釈せずに使用するか、もしくは、水で3倍に希釈)してアブラムシ対策とし、その他、ニンニクエキスの散布、びわの種のエキス、磨り潰した害虫の懸濁液などを防虫手段に用いています(残念ながら今回の取材では、私には詳細を把握することはできませんでした)。林さんの抱える最大の問題はトマトです。トマトは日本の風土にうまく順応しないのです。
私が11月下旬に訪れた時は、水菜、小松菜、バクチョイ(中国の広東白菜)、レタス、白菜、ほうれん草といった様々な青野菜や、人参、ネギ、大根、ごぼう、ブロッコリ、カリフラワーが育っていました。私は、行った先々の「提携」農場でこのような混作を目にしました。黒大豆と小豆はまだ収穫前で、鞘の中で乾燥するのを待つ状態でした。タマネギ、ジャガイモ、薩摩芋、里芋、ショウガ、そして、種芋用の芋類が収穫が済んで貯蔵庫に入っていました。また、稲は刈り入れ後、籾摺りされていて、玄米が袋詰めにされていました。サヤエンドウと小麦の芽は、ちょうど地面から頭を出しているところでした。キュウリの栽培には、輪状の柵をアーチ型に組んで連ね、それに網を張った格子棚が用いられており、それがサヤエンドウの支えにもなります。
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農園を訪れたその日は、重孝さん、重孝さんのお父さん、そして研修生3人がタマネギの植え付けをしていました。研修生の給料を県が支給していると知って私は感銘を受けたのですが、見習い期間の後農業の道に進まなかったら、支給金は返さなければならないということでした。
林農園は、年間を通じて毎週1回、野菜、米、豆類、小麦粒、加工品、卵を、千葉県内の60世帯の家庭に届けており、レストラン数店にも販売しています。林農園の農業者たちは、会員の家庭へは、週3回、軽トラックで直配します。ほとんどの会員は月払いで、希望する産品を取り混ぜて注文します。値段は、品目ごとに、あるいは箱単位でつけられています。農場では、野菜を洗ったり、等級に仕分けたりはしません。また月に一度、農産品といっしょに農園新聞が届けられます。そして年2回、会員は農園へ足を運んで見学や食事を楽しみ、農業について話し合います。地元新聞に好意的な記事が掲載されると効果的ですが、新規会員の募集は口コミが頼りです。
「提携」十か条
翌日の主な日程は、オルタナティブ・マーケティングについての公開セミナーでした。開会一番、私は北米のCSAに関して、スライドを使いながら、2時間に亘って発表したのですが、私が口を開く度に、出席者からの相次ぐ質問となりました。「消費者がCSAに加入する理由は、何ですか?」「どうやって新規会員を募集しますか?」「米国に、自給自足の農家はいますか?(生計が成り立っているか、との意味に私は解釈しました。)」「CSA農家は新規就農者ですか、それとも慣行農家からの転向者ですか?」という具合に。g
次の日は神戸で、「提携」会員、学生、農家の人たちからなる聴衆に、CSAについて別の話をしました。出席者の中には、「提携」創始者の一人で熟年農家の尾崎零さんがいました。彼は、畑を40アールくらいに縮小しているところで、その程度の広さでも農家の生計は成り立つことを示したい、と私に語りました。私のCSA農場の会員数(250世帯)を聞いた彼は、その数の多さに驚いて、「提携」を始めた頃のことを彷彿とさせると言いました。落ち着いた雰囲気の公開セミナーの後は、腕によりをかけて作られた夕食を囲んでの賑わいとなりましたが、私が生まれて初めての刺身に挑戦するまでには到りませんでした。
日本有機農業研究会の幹事である橋本慎司さんは、市島村で農園を経営しており、その農園の研修生2人が私たちを市島村の彼の自宅へと車で案内してくれました。かつて橋本さんが生協で商品管理をしていたころ、彼は保田茂教授の環境学講座を受講しました。保田教授は日本の有機農業運動を指導する中心人物の一人であり、「提携十か条」の創始者でもあります。この教授から直接学んだことが刺激となって、橋本さんは農業を志すに至ったのです。そして15年前に市島村へ引っ越してきたのですが、この村で、農業を辞めていく農家から「提携」のグループを引き継ぎました。1970年代初頭には、この「提携」グループは1,300世帯もの会員数を有していました。その後の分裂や自然減で300世帯にまで落ち込みましたが、ここ20年間はその水準で安定しています。
私自身が北米の農村部で経験していることなので、今日に至るまでの橋本さんのいきさつを聞いても驚きませんでしたが、日本の小さな村で、橋本さんのような新参者が受け入れられるには、長い時間と忍耐を要するそうです。しかし、協力し合うことによって成り立つのが村の生活というものであり、そのことが村に溶け込む機会を与えてくれます。各世帯は毎月一日、公共工事、防火管理、道路、下水溝、灌漑システムの維持管理に協力する義務があり、それをきっかけに村の人々と心が通い合っていくことになるのです。
橋本農園の研修生には、地元で農業を続けることを条件に、県から給料が支払われます。研修期間は最長3年で、月々の手当ては15万円(約1,200ドル)です。また県の行政は、橋本さんが温室を建てる時にも助成金を出し、さらに県が運営する堆肥製造工場から、適正価格で堆肥を提供しています。その工場では、もみ殻とコーヒーの豆殻をそれぞれ地元の酒造工場と加工業者から入手し、それらを牛の糞と混ぜて堆肥を作っています。
福岡正信氏の説く自然農法に感化された橋本さんは、土壌検査や、積極的に病害虫を防除したりするようなことは一切しません。橋本さんは、米ぬか、鶏糞、菜種粕、カキの貝殻、糖蜜、「EM菌」、水を混ぜて堆肥を作り、肥料として土に施用します。大きな桶の中でこれらの材料を混合し、紙袋に詰めた後、2、3週間ねかせて発酵させます。
橋本さんは他の5人の農業者と共に市島町有機農業研究会に所属しており、この会を通じて、橋本さんは自分が生産した全ての農産物を、合計300世帯の会員数からなる4つの消費者グループに直接販売しています。農産物の配送方式は、消費者グループごとに、多少異なっています。ある消費者グループは、特定の一農家が責任をもってグループ会員に農産物を届けるという方式をとります。そして2、3年毎に、その特定農家が順に入れ替わっていきます。このグループにとっては、農家との信頼関係の方が届けられる箱の中身よりも大切なのです。また別のグループは、他の農家からも農産物が購入できるようにと、人を雇って、農家間の調整に当たらせています。最初に説明した特定農家の農産物を受け取っている1グループ以外の3つのグループに対しては、6農家全員で毎週の配送を受け持ちます。また年2回、生産農家と消費者が寄り集まって、各品目の値段を交渉して決めます。それから、毎週の配送の内訳について双方共に納得して合意できるように、農家の人たちが手際良く、工夫を凝らしながら野菜の種類を組み合わせます。橋本さんは、驚くほど複雑な仕分け業務を記した書類を私に見せてくれました。農家の人たちは口々に言いました――3人の年配農家が手間賃を払ってでも若い3人の農家に計算を任せたいと思うのはもっともなことだ――と。6人の農業者全員が会に支払っているのは、生協の経費、トラック修理費、倉庫代、コンテナ使用料等です。消費者側には、それぞれのグループに各グループで選出した委員会があります。会員は、会計、配送、会報、肉、加工品調達、遺伝子組み換え反対運動の企画など異なる分野を各自が責任を持って担当します。
百姓とは、「百の仕事」
日本語では「農家」のことを古くから「百姓」といい、数字の「百」と仕事(技能)を意味する「姓」の2文字から成ります。とりわけこの言葉が当てはまるのは、金子美登・友子夫妻であり、彼らは自分たちの農場でとても多くの作業をこなしています。金子夫妻は、乳牛2頭と鶏200羽、また1.2ヘクタールの水田の雑草を食べてくれるアイガモを数十羽飼い、40種類に及ぶ野菜、しいたけを栽培します。さらにイチゴ栽培専用のパイプハウスがあって、果樹、竹、小麦、大麦を育てながら、大豆を作って味噌や醤油に加工します。行った先々の農場でもそうでしたが、鶏はニワトリ小屋から離れません。金子夫妻は、輸入トウモロコシの使用を避け、大麦の粉、米粒、小麦の屑を餌として与えています。木を刈り込んだ枝葉、牛糞尿、残飯から堆肥を作り、籾殻薫炭(くんたん)と竹炭を作って肥料にします。また、牛糞尿をバイオガスプラントへ投入してメタンガスを発生させ、それを火力にして家の料理はほとんど作れます。さらにメタン生成の副産物としてできる液状糞尿(スラリ)は肥料(液肥)にもなります。太陽光発電も設置され、その電力でポンプを動かします。植物油の廃油から作ったバイオディーゼル燃料でクボタのトラクターを稼働させます。かくしてこの農場は、自給自足的資源節約型有機農業の傑出したモデルとなっているのです。
1971年、美登さんは、ささやかな農園ではあるけれど、自分の家族以外の他の人々にも農作物を供給できるのではないか、と思い到りました。計算すると、米の収穫は他に10世帯を賄えるほどあったので、地元の主婦を募ろうと考えて、「読書会を開くので来てみませんか」と声を掛けたのです。その読書会では「身体と環境の調和」といったテーマの下に、自然食品の価値や、伝統的な日本食が健康に良いことついて話し合われました。自ら「教育と相互交流」と名づけた4年間を経て、1975年、美登さんは10世帯の家族と契約を結びました。その契約内容は、何がしかの金銭と労力を提供してくれれば、米、小麦、野菜を支給するというものでした。彼の著書『未来を見つめる農場――太陽と土のめぐみに生きる』の中で、初めての「提携」の試みで経験したさまざまな困難、努力をしたけれど誤解の中で徒労に終わってしまったことなど当時のことが綴られています。2度目の挑戦では、前回よりうまくいきました。農作業は自主参加、支払う金額は全て消費者が決める、というように消費者に託したからです。野菜の収穫が10世帯の家族の需要を上回った時点で40世帯を追加し、地元の学校への販売も始めました。
弾丸ではなく、種子を――平和への新たなロードマップ
私の最後の農場訪問は、魚住さん一家――道郎(ミチオ)・ミチコ夫妻と2人の息子さん、マサタカ君、テルユキ君―の農園でした。道郎さんは私に農園を案内する時間を割くために、「提携」会員への配達日を大幅に変更したので、私の訪問中には10世帯分しか用意していませんでした。私は畑仕事を手伝おうと思って、借りた作業着を身につけたのですが、写真撮影に忙しくて、お役に立てたとは到底言えません。私は、足先が二股に分かれた地下足袋を履いて大喜びでしたが。
魚住夫妻は農業を始めて20年になり、十分に経験を積んでいますが、今でもまだ「新参」農家と見られています。二人とも農家の出身ではないからです。彼らの畑の土は豊かな暗褐色のローム層で、灌漑する必要はありません。野菜の収穫は全て手作業で行うのですが、私が見た中で最も機械化(省力化)の進んだ農園でした。
魚住農園では、作物の品質はずば抜けたものでした。雑草は皆無と言っていいくらいで、虫食いもほとんどありません。私は道郎さんに、毛虫がブロッコリをむしゃむしゃ食べる姿が目に入ったらどうしますか、と尋ねてみました。すると彼は、作物が虫に強くなって、被害を受けなくなるのを待つだけです、と答えたのでした。緑肥に関しても、同じ省力という方針で望み、わざわざ被覆作物を植えることはせず、雑草を掘り返して土にすきこむだけです。「自然のままがいいんですよ」、道郎さんはそう語ります。
魚住農園では、一年中150世帯に毎週の配送を行っています。代金の支払いは週払いか月払いです。箱は2種類のサイズがあって、その中身は、自分の農園で穫れた野菜、卵、米、栗、豚肉、みかん、りんご、自分の農園の小麦で作ったうどん、また他の農園で穫れた茶葉から作ったお茶などです。魚住農園では、野菜はほとんど洗いません。
翌朝、道郎さんと私は東京行きの列車に乗り、日本有機農業研究会の理事会と私の最後の公開セミナーへと向かいました。会の人たちは、私を米国のCSA運動の代表者と考えていたので、米国には日本有機農業研究会のような全国組織は事実上存在していない、ということを知ってがっかりした様子でした。私は、CSA運動を盛り上げて欲しいという彼らのメッセージを米国で広く伝える方法を見つけ、米国の「CSA」と日本の「提携」との相互交流を今後も続けていくことを約束しました。
日本有機農業研究会理事長の佐藤喜作氏が、この組織は「自給」と「生産者と消費者の提携」に重きを置く、と情熱的な宣言をして集会は始まりました。「あなた方に、自分自身を、そして自分以外でこの地球に住む生きとし生けるものを尊重する心があるならば――」佐藤氏は宣言しました。「――その心は世界平和に繋がるのです。」続いて、私を最後にお世話してくれた魚住道郎さんが、最近の企画事業や問題点について報告しました。有機認証制度を支持するかどうかは、日本有機農業研究会でずっと明確な方針の打ち出せなかった問題です。道郎さんの見解では、農家が認証を求めても求めなくても、いずれにせよ日本有機農業研究会には彼らを支援すべき義務があるとしています。
次に議題は、米国でオーガニック農業を実施するCSA農家と日本有機農業研究会とが連携していくにはどのようにしたらいいのかという討論へと移っていきました。日本有機農業研究会の指導者たちは、若い世代の農家が推し進める米国CSA運動とのつながりが、日本の「提携」に新たな息吹を注ぎ、その活動の活性化に結びつくと確信しています。それというのも、日本の「提携」は、60〜70歳代が大半の会員によって支えられているからです。私は、「小規模な有機農場が存続するには、柔軟性と状況の変化に応じてすぐに再調整できる対応力が求められることを肝に銘じてください」と強く訴えました。「提携」やCSAだけで経営が成り立たせることができる農家もありますが、ほとんどの場合は、「提携」やCSAといった有機認証の必要のない市場の他に、有機認証が必要とされる市場を開拓する必要があるのです。
その日の午後、農業のグローバル化ということに関連させて、CSAの話をしました。私は、アメリカ人がなぜ骨折りしてまでもCSAに加わろうとするのかを説明するために、できるだけ多くの情報を提供しました。そして、私は、様々なCSAが新しく会員を集めたり、会員数を維持しようとしたりしている事例を数多く挙げました――例えば、両親が共に働いている家庭に対しては、それぞれ個別の事情に応じた便宜を図っているような例を挙げて。そして、私は、私が常に胸中に深く抱いている信念を言明しました――私たちの運動は、必ずや現在の社会を塗り替え、そこでは砲弾やミサイルでやり合うのではなく、種子や料理のレシピが盛んに交換されるような平和な世界を築いていきます――と。その信念の言葉をもって公開セミナーの結びとしました。
その後は、「提携」と「CSA」との祝賀会へと移り、持ち寄りのご馳走が存分に用意されました。威厳ある佐藤理事長や生真面目な魚住氏も、お酒が一杯入ると上機嫌になって、歌を歌えと周囲にけしかけたり、冗談を飛ばしたり、同席の女性に日本の民俗舞踊をちょっと披露してみろと盛んに勧めたりするのでした。その座の顔ぶれの多くは、有機農業運動に何十年も身を捧げ、さらに、食の安全を守るための活動を積極的に行い、核戦争への反対を訴え、最近では遺伝子組み換え反対運動を展開している面々です。こうして長年有機農業に携わってきた日本の熟練農家の人たちが、刺激と感化を求めて、私たちに眼差しを向けているのです。それは、多くの困難と格闘して頑張っている私たち米国のCSA農家に対して今後の課題となる目標を与えてくれることであり、また、私たちが今までなし遂げてきたことに真の意味での名誉を授けてくれることでもあるのです。
会場を後にして出て来た非常に大勢の人々が、私を、通りを隔てた宿泊先のホテルまで送り届けてくれました――最後にお別れの挨拶を交わして。私は疲れ果ててすぐ床に就いたのですが、高揚した気分は治まりませんでした。翌日、飛行機での帰路についた私のカバンは、寛大なおもてなしをしてくれた人たちのお土産でずっしり重くなっていました。機上では、今回の素晴らしい旅行の鮮明な印象が次々に脳裏をよぎり、頭の中は混沌としていました。
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