ファンタジー・アイランドへようこそ。私の目が捕らえるのは、テレビカメラがグローズアップする撮影の瞬間です。芝地に立つのは、ホスト役で白いスーツ姿のリカルド・モンタルバン、その隣では相棒のタトゥーが、フランス語訛りで、「飛行機着陸!飛行機着陸!」と到着を知らせるところです。金曜の夜の人気テレビ番組(1978−84年に放映されたアメリカABC放送の人気番組「ファンタジーアイランド」)なら見過ごしてしまうところですが、目に飛び込んだ島そのものが醸し出す、紛れもない神秘性に私は圧倒されてしまいました。人目につかず、どこにあるのかわからないようなこの離れ小島は、幻想的であっても切実な夢を試してみるには最高の場所なのです。
日本に着いて早々に、私はそのような夢の島(ファンタジー・アイランド)を見つけたのかもしれません。自分が一体どこにいるのか、さっぱり見当がつかず、私には、今渡ってきた深緑色の海が瀬戸内海で、緑色の岸辺が朦朧と霞の中で見え隠れし、この島はたくさんの島々の中のどれかなのだということしかわかりません。私の旅の連れ立ちは、案内役の人たちと通訳という秀明のいつもの一行で――それ自体は、夢の仲間とは呼べないとしても、それでも島の情景には不思議な魅力を感じたのです。
このうららかな春の日に、濃い桃色のしゃくなげが、穏やかな森の間からチラッと顔を覗かせています。濡れた道を歩いていくと、昨年の秋の紅葉がまだ小道に一列に並んで残っています。ここは、ラジオの選局ダイヤルをグルグル回すような感覚で、あちこちを散策して楽しめる場所です。ほら、空に澄み渡る小鳥たちのさえずり、咲き誇る桜の芳しい香り、そして、ここでは海の真ん中でしか体験することのないような真の静寂を体験できるのです。
もし、秀明自然農法にたった一つ聖地があるとするなら、それは、この黄島そのものといえるでしょう。そしてこの島は、私の想像をはるかに超えた素敵な夢の島なのです。秀明は黄島の大半を所有し、他には真似のできないような、言わば、理想郷を築きました。別の見方をすれば、黄島は夢を育む場所であり、農薬の飛散や財政の圧迫という現実の足枷に悩む本土から逃れ、秀明自然農法が開花することができる場所なのです。秀明自然農法に取り組む人たちは、「ファンタジーアイランド」の番組の最後に飛行機で立ち去る来島者のように、この島で学びを受けたあと、「完全」という夢を不完全な現実の世界で実現させるために飛び立っていくのです。ここはまるで夢の研究所のようなところなのです。
しかしこの島の主人公は、リカルド・モンダルバン(「ファンタジーアイランド」の主役を演じる俳優)とは違います。私たちが島に着くとすぐ昼食になり、実際、その人物はテーブルにそっと姿を現したのですが、大いに尊敬を集める先生といった素振りではなく、遠慮がちな使用人のように謙虚な様子です。小柄な体に痩せた顔つきで、丸く突き出た頬骨に皮膚がピンと張り、頬はこけて窪んでいます。耳はソーセージのような赤茶色で、革の帽子は長年愛用したとみえて、彼の頭にピッタリと合っていて、他の誰の人の頭にも合わないでしょう。彼は、私たちが座っているテーブルの椅子を引いて腰を下ろすのではなく、隣のテーブルにじっと腰掛けたまま、彼自身会話することには慎重な姿勢を保ち、人の話にじっと耳を傾けます。しかし口を開くとなると、彼は目をぱちくりさせます。
大地と圃場から力を得る農業者
食堂を出て農地へ移ると、室田さんはまるで水を得た魚のようです。土の上に立ったまま、土壌の層毎の自然堆肥(厩肥を含まない枯れ草や落ち葉だけの堆肥)についての考え方を、よどみない口調で説明します。とても小さな畑が散在する中、低木の立ち並ぶ、ぬかるんだ細い道を上って次の目的地へ向かっていくと、彼の声に一層力が籠もります。やや上り坂のため、目的地が視界から外れ、私たちがさっきいた畑は葉陰に隠れてもう見えません。その時、私の脳裏にさっと閃いたのです――室田さんの力の源は彼の畑だけではない――と。室田さんという人間自体――そして彼の農業の総仕上げをしてくれるのは、この自然の状態そのものに他ならないのです。
しかし、以前は必ずしもこうではなかったのです。室田さんが何十年も前に黄島に赴任した当時、彼は農業者ではなく、島で他の活動を支援するため派遣された一青年でした(黄島は、秀明の子供たちのサマーキャンプ場、会員の研修所としても使われています)。当時、秀明自然農法は始まったばかりで、島を管理する居住者たちは、それをどうやって軌道に乗せたらよいのかと、まだ模索している段階でした。それまで職業農家として慣行農業を行ってきた彼らが知る唯一の策は、「土地を広げれば広げるほど良い」ということでした。そこで、島が許容するギリギリまで畑の拡大に乗り出しました。
けれども、島の許容能力というのは見方によって変わります。木を切り倒し、荒地をすき起こし、畑が増えるにしたがって、自然堆肥として当てにした木の葉や雑草が不足してきました。島が十分な量の有機物を生産することができなくなり、畑自体の維持ができなくなると、本土から堆肥や、時には厩肥でさえも――畑を続けていくために、何でも持ち込みました。
当時、室田さんはベテランのもとで農家の見習い修業をしていたのですが、彼は次第に何かが違うと感じ始めていました。それは、単に厩肥の使用(秀明自然農法では禁止行為)を認めるという妥協だけでなく、島の内側そして周囲で互いに関連のある自然を構成する要素全体がバランスを欠いた状態になっていることに気づいたのです。島の森はほとんど消失し、残っている松の木は不思議にも病気に侵され、年輪が年毎に細くなるのです。島周辺の海草も、次第に減少してきました。作物の生産は目覚しいものの、農業者たちは、生産だけが自分たちの目標ではないということをとっくに忘れてしまっていたのです。室田さんは「自然が破壊されつつあるとするなら、どうしたら私たちは自然との調和を築いていけるだろうか?」と思いました。
世界的空間に広がっていく農場
20年前室田さんは農場責任者となり、それまでのあり方を根本的に変えました。そしてこの時のことが彼にとって秀明自然農法を実施する上で、全てのバックボーンになっているのです。彼は、秀明自然農法を、まわりの世界とは一切関係がなく圃場の中だけで独立する農業体系だと考えるのではなく、彼が関わる世界――野原、畑、島――は、有限な世界でありながらも、全てを含むもっと大きな大自然の縮図なのだと考えました。何かを加えると、軋みが生じて調和が崩れ、何かを取り除くと、全体の機能に支障が起きます。

2003年、彼の畑は豊かな情景を映し出しています。今はキャベツが真っ盛りで、畝は青々と茂り、心地よい感じです。キャベツの球と球の間隔は十分空いているのに、どれもふっくらして丸いので、畝はぎっしり詰まっている印象を受けます。何処もそんな様子です。全部で73アールの畑は、それぞれ土が粘土質であったり、肥沃であったり、潅木や木の葉が茂っていたり、作物が密集していたり、大きく成長していたりと、環境は最適の状態です。
室田さんは確信しています――これほどまでに島が豊かなのは、島が自然の均衡を取り戻して、島内にある材料だけで作った自然堆肥を土に施すことができるようになったからだ――と。けれども、その豊かさの理由について、一挙に飛躍して結論に達しようとすると、室田さんはそんな私の心を見透かします。彼は根気よく太い指を立てながら、秀明自然農法の3つの基本原則を繰り返し話すのですが、ほとんどの西洋人はこの基本原則の考え方につまずいてしまいます。その考え方とは――自然堆肥は土壌に栄養を与える為に使用するのではなく、自然堆肥を用いることによって土壌の湿度を保持し、一定の温度を保つように保護することによって、土壌そのものが動植物を養うという考え方です。
自然には必要な物がすべて既に備わっている――だから私たちはここで単にその補佐役をしているに過ぎないのです、と室田さんは私に気付かせてくれます。
室田さんの用いる方法の中で最も科学的な手法でさえ、さほど科学的なものではありません。自然堆肥を作るために、室田さんはまず落葉と刈った草を木で組み立てた囲いに入れて混ぜます。それに真水をまんべんなくかけ、その塊を踏みつけます。そして、その有機物を含む混合物中の水分が60パーセントになるまで、同じ作業を繰り返します。その後、放置して発酵させます。
堆肥がいつ出来上がるのかどうしたら分かるのですか、と当然の如く私は彼にたずねます。するともちろん室田さんは答えてくれるのですが、それは遠回しという感じです。つまり、少しだけ理解できるように説明してくれるのです。でも、そのような彼の答え方から、私の質問が実は的外れであることに気づかされるのです。
私の質問に対し、室田さんはこう答えるのです。「『半熟』というのは、『十分に熟していない』状態をいいます。例えば半熟卵のようにね。自然堆肥として使うのは、大部分がこの『半熟』になってからです。」
自然堆肥の腐植化の過程そのものを利用することが効果を発揮する
堆肥を土へ混ぜるには、完全に腐植化していなければならない筈なのですが、室田さんは滅多にそうしません。ほとんどの場合、半腐れの状態で、土の上や植物の周りに被せます。自然堆肥を施す過程そのものが、土壌の中の1つの層を作ることになるのです。そして、各々の層が有用な役割を担うのです、と彼は説明を加えます。「森の中に堆積した落葉を思い浮かべて下さい。木の根元辺りには落葉がそのまま残っており、その下層には半腐れの落葉が、さらに下層には完全な腐葉土ができています。腐植化の程度に応じて、各層の落葉のエネルギー量や腐植質の栄養状態は異なりますが、植物の生育環境にはどれも重要です。」室田さんは述べます。「自然堆肥が腐植化し切るまで待つより、その手前で土壌表面に敷き、自然堆肥の腐植化が進行する各過程を全て活かした方が良いのです。そう思いませんか?」
私たちは、霞がかかった網に覆われた遅蒔き大根の黄色い花とエンドウの若い蔓の姿に見惚れています。そんな間にも、先ほどの言葉が、西洋的思考でこちこちの私の脳裏に沁みてきます。湿っぽい空気が凝結し、次第に冷たい雨が降り出します。不運にも昨日も雨に見舞われ、一行の全員が慌てて傘を取りに走りました。けれども、今日、ここ丘の上の畑では、室田さんはヨガ行者のように、ワケギの畝の前でひざまずいたままです。実が鮮やかに熟れ、活気に満ちたこの畑から、今日は誰も立ち去ろうとしません。

ワケギを一瞬触る彼の手つきは、まるで子供の髪を撫でるようです。それから土の上に肉づきのいい右手を広げて話を続けます。作物の実の部分を収穫した後に、切り株をそのまま地面に残しておけば、地中に3つの層ができます。表層にあるのは今年の作物の根系(生きている根、半死の根、死んでいる根が程よくバランスをとっている状態)で、その下の層はその前作の根系で、その又下も順々にそうなっています。彼は再度自然を取り上げて説明します。「人の手がかかっていない山へ行ってご覧なさい。そこではこの現象が当然のこととして起きています。手の中に土を一掴み取って、少し水をかけて下さい。その土は綿球のように膨らむでしょう。そして次に、むき出しのまま、むやみに耕された土で、同じように試してみても、土はぼろぼろに砕けてしまうでしょう――そのような土は土壌粒子をまとめる力がないのです。」
「本当に良い土とは、単に腐植化が進んでいるだけではなく、発酵しているのです。」と室田さんは指摘します。
室田さんがワケギを左手でブラシをかけるようにかきわけると、ひょろりとした褐色のキノコが、その根元に現れます。「本当に良い土の中では、生物体が微生物によって分解されてなくなってしまうのではなく、分解されてもそこから何か新しいものが創造されていくのです。その証拠にキノコが生えています。まるで森の中みたいでしょう。例えれば、牛乳が乳酸菌に分解されても無にならず、ヨーグルトという新しいものが作られてくるようなものです。」
アメリカ人の私に具体的な証拠を見せる
雨が降ってきたので屋内へ入るのですが、もっと具体的な証拠を伴った説明が私にはまだ必要だということが、誰の目にも明らかです。畑の隣にはコンクリートの家があり、意外にも小綺麗な部屋へ私は通されます。そこには畳が敷いてありますが、家具類はなく、低いテーブルが2台とアメリカ人の私のために椅子が1脚置かれているだけです。
テーブルの上にガラス瓶が3個並んでいます。厚手の綺麗な3個の瓶には、半年前にそれぞれ異なった場所で採取した土壌試料が30グラムずつ、水と一緒に入っていて、蓋で密閉されています。同じ黄島の自然環境にある土壌から採取したにもかかわらず、各々の瓶内で起きた結果は、3種類の土壌の性質の決定的な違いを示しています。
室田さんが手がけている畑の中で、成熟度が最も低い畑から採取した土の入った瓶は、水はほぼ澄んでいるのですが、瓶底には2.5センチメートル位の濃密な単色単層土が、腐った魚肉のようにこびりつき、予想通りこの水の層と土の層の組み合わせは気味の悪いものです。不耕起で毎年ナスを連作して13年目になる畝の表土から採取した土の入った瓶は、成熟度が一段階上がっています。水は透けては見えますが濁っており、土は団粒土の塊になって5センチほど底に積もっています。その色は緑から褐色まで変化にとみ、表面はフワフワと毛羽立ったような状態です。一方、森林の土が入った瓶の中は、まるっきり別の種類の生命体であり、それ自身微生物の宇宙です。水は濃い茶色に濁っているため、透けて見えません。土は縦の最高目盛15センチまで積もり、繊維状の海面状構造土が塊になって広がっています。フワフワとしていて、まるで池の底を見ているようです。白い糸状のものが連なって、いくつもの土の塊を繋ぐように、見え隠れしながら水中を漂っています。

自然堆肥と根系のいずれにせよ、どの腐植化の段階であっても土壌の状態が自然の状態に一歩近づくたびに土壌は一層複雑になる、と室田さんは説明します。文字通りに言っても比喩的に話しても、その複雑さが、土壌粒子をまとめる力になるのです。土壌の各層によって生息する微生物や生産する栄養物は異なります。そして、土壌の状態が全く自然な状態になれば、植物が栄養を吸収するために必要な物は、全て土壌に備わってくるのです――ちょうど食物の消化作用と似ており、どんな食物でも、消化に必要な酵素や補酵素としてのミネラルが揃ってこそ、つまり消化作用に必要なものが全て揃ってこそ、完全に消化されるのです。土壌を形成する幾層もの層から一つの層を取り除いてしまうと――例えば、収穫後に植物の根を引き抜くように――土壌の層構造は不完全なものになり、自然はその作用を最大限に発揮出来なくなるのです。
同様に、互いに関連のある要素がバランスを保っている自然界に何かを加えても、それは急にバランスを失ってしまいます。室田さんは文字がぎっしり書かれた日本語の専門雑誌を取り出し、カリフォルニア大学による実験報告のページをめくります。それは実験用に2つの人工の水たまりを用意し、一方は水に肥料を加え、他方は真水のままで、池の中に発生する生物数の増減を比較するものです。後者の真水の入った水たまりでは、生物はゆっくりと増加し、だんだん生物の繁殖が進んで最大数に達した後、生物数はゆっくりと減少し、その後、一定の生物数が保たれる(すなわち、安定した生態系が保たれる)ことが実験結果を示すグラフよりわかります。一方、肥料を入れた水たまりでは、生物は急激に増加し、一気に最大数に達しましたが、その最大数が一定値を保つことなく急激に減少し、かなりの数の生物が消滅してしまいました。肥料を入れた水たまりでは生物が急激に大量発生したため、水中に溶存する酸素が枯渇して、水中の生物が死んでしまったのです。
実験概要について通訳が苦労して説明している間に、室田さんがもう別の話題に移っているのが分かります。室田さんはコーヒーカップに深い目線を落としてから、話の続きを待っている出席者たちの方に軽く頷いて合図し、また話を始めます。先ほどの瓶も雑誌も私にとっては注意を引き止めておくべきものですが、出席者たちが力強いと感じるほどの室田さんの生の声には及びません。本当の証拠は外にあるのです。ほっそりとしたワケギと、雨に濡れた褐色のキノコの間の直ぐ下辺り、どこか隠れたところに……
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