幼い頃、父と過ごしたスイートコーン畑
私の父は、オハイオ州にある祖父の農場で4町の土地にスイートコーンを栽培していました。5歳の時、スイートコーンの茎から朝露がしたたれる中、苦戦しながらその実を1本とるごとに、父は1ペニー(=1セント)を私に払ってくれたものでした。
8月の太陽が昇り始めようとする前に、父は私を起こしたものでした。私は大きく伸びをし、小さなブルージーンズのオーバーオールに急いで着替え、外へ駆け出して、オレンジ色のフォード社製収穫用トラックの氷のように冷えたビニール座席に飛び乗ると、父はトラックのエンジンをかけ、祖父の農場へと向かって砂利道を走らせたものです。
私と父は一緒に泥だらけの畑でせっせと働きました。スイートコーンの実をもぎ採り、トラックの錆びついた荷台へ投げ入れました。私は25セントを稼ぐ間に、普通3回は葉の生い茂るスイートコーンのジャングルの中で迷い、助けを求めて叫び声を上げていました。50セントを稼ぐ頃には、太陽が眠そうに顔を出し、朝露で濡れてしまったフランネルのシャツを乾かしてくれますが、それも束の間で、すぐに汗でびっしょりになってしまうのでした。
祖父の農場を手伝う
私が高校生になる前に、父はそれまでのわずかな農業を辞めてしまったので、私は規模の大きい祖父の農場で時給6ドル50セントをもらって、スイートコーンの収穫を手伝いました。おじと、いとこと、私とで、その当時 、スイートコーンを黄色いベルトコンベヤーに投げて入れていました。そしてそれらはベルトコンベヤーに乗ってワゴン(運搬車)へと運ばれ、そこでは別の二人が、5ダース入りの白い袋にスイートコーンを詰め込む作業をしていました。
スイートコーンを収穫し、ベルトコンベヤーに投げて入れる作業は退屈で、何の創造性も求められませんでした。それで私たちは思いつきでいろいろなことをしました。毎日、気晴らしに、肥やしまみれの土の上でレスリングをしたり、折れたスイートコーンを投げてコンテストをしたり、移動するワゴンから動かない干草の束へジャンプしたり。また、その年の“コーン・シャツ”スローガンへ向けていろんな案を考えたり、将来の冒険の計画を大声で話したりなど止まるところを知りませんでした。
輝きを失い始めた農場
何年もの間、私はいつかスイートコーンのビジネスの経営を手伝うことを夢見ていました。家族農場の中の青々としたとうもろこし畑で親戚たちと一緒に1日働いた後に感じた心の底からの満足感に勝るものが他にあるでしょうか?
しかし、絵のように美しかった農場の風景は、そのうち輝きを失い始めました。私は、日照りや雑草、アワノメイガ、あぶらむし、鳥の大群、気難しい農産物販売店などの対応に追われ、頭を悩ますようになりました。。
さらに重要なことに、私は、これらの悩みの種となっている雑草や虫などを駆除するために不快な農薬使われていることに気がつき始めたのです 。私たちの隣の畑で殺虫剤をスプレーで撒いていると、風に乗ってこちらの畑に飛んで来るため、そのことが心配で、また嫌だなと思いながら見ていました。祖父が生産量を上げるために使っていた化学肥料に対しても私は疑問に思っていました。また、祖父が、さらに多くのスイートコーンを植えるために何町もの森を切り開いたと聞き、ぞっとしました。
私を引き付けた言葉
――“持続可能な”、“オーガニックの”、
“パーマカルチャー”――
このような農業の代替案を探して、私は地域の図書館で“グリーン(環境に優しい)”の分野の本を拾い読みし始めました。そして、大学では、いくつかのエコロジー関係のコースに入りました。“持続可能な”とか、“オーガニックの”とか“パーマカルチャー”というような言葉が、私の興味を引き付け始めました。
以前一度、祖父に、オーガニック農法でスイートコーンを栽培することについてどう思うかと尋ねたことがあります。それに対し彼は、こぼしながらも丁寧に答えました。「子供の頃はそういう農業をしていたよ。鍬で雑草をとって、手作業で植物から虫を振り落としていたんだ。日の出から日暮れまでずーっとだよ。そりゃあ、楽しい仕事じゃなかったね。」と。
祖父の世代の人々にとっては、殺虫剤や除草剤、化学肥料は近代における奇跡でした。私は違う見方をしていたものの、しかし、トウモロコシの収穫を手伝う10代の若者の思いが、祖父に何か影響力を与えるわけではありませんでした。それで、私は自分が学んだ“持続可能な”とか、“オーガニックの”とか“パーマカルチャー”というような言葉を、毎日のさまざまな出来事の中で使い、スイートコーンの収穫を続けていました。ところが、私はほとんど気づかなかったのですが、やがてコーン畑がこれらの言葉を冒険の計画の着実な流れの中へと融合させていったのです。.
WWOOF(ウーフ)を知る
大学の最終学年の前の夏、私は、兄と、いとことで最後の旅行計画案について話し合いを始めました。最初は、二つの目的を果たすことを考えていました。1)前回のアメリカ東部の山、川、海岸での1週間の大騒ぎを、今回の旅行では祖父に経験させてあげること。2)父とおじさんがバイクで西部を出て冒険した70年代の話に対抗するネタを作ること。
計画案はたくさんありました。バハマまで航海する? バイクでアメリカを横断する? オーストラリアまで泳ぐ? コーン畑でのこんな会話は、何週間も続きました。そして、ある運命の朝、いとこのデレクが“WWOOF”(ウーフ)と言われるものについてぺらぺら喋り始めました。
最初は懐疑的でしたが、彼がその頭文字が“世界に広がるオーガニックファームでの機会” を表していることを教えてくれたので、私たちは耳を傾けました。それは、農場で働いてみたい旅行者と、働いてくれる人を求めている世界中の農家とを結びつける活動をしている組織でした。
その日は、とうもろこしの茎から蒸気が立ち上るほどのうだるような暑さと、作業が退屈だったため、気が錯乱 したような状態でした。そのような状況下では、6ヶ月間世界中をはしゃぎ回ろうというアイディアはとても普通のことのように思われました。私たちは何週間もかけて話し込み、コーン畑の夢を、タイの水田、インドの水牛、スペインの起伏に富んだ黄金色の畑への旅に絞りました。
5歳の頃の興奮と好奇心をもって、
世界のオーガニック農場で働き、そこから学ぶ
私達の目的は、今では、旅をしながらオーガニック農場で働き、そこから学ぶことに変わりました。私たちは、単なる旅行者として東南アジアやインドやヨーロッパをぶらぶらするつもりはありません。自分達の手で土に触れ、太陽とともに起き、一日中日差しを背中に感じながら働きたいのです。天気のことについて農家の人々と話し合ったり、彼らがどんな風に生活しているかを学んだり、なぜオーガニック農業をしているかを理解したりしたいのです。チャンスはあります。スイートコーン農家にはあまり出会わないと思いますが、私たちは、新しい農法について、ヒントを得たり学んだりしたいと思っています。そして、学んだことを持って帰って他の人々にも伝えたいと思います。
私は、もう一度、5歳の頃に感じていたような興奮と好奇心をもって、ブルージーンズのオーバーオールの中に飛び込もうとしています。家族経営のスイートコーン農場は、私の心の奥深くにその種を蒔いてくれました。ある意味で、覚り のための長旅の種を育ててくれていたのだと思います。
それではジェイソンの最初の旅先、タイに行ってみましょう。

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