ペレストロイカ後の数年の間に、私は本気で野菜を育てることに携わりたいという気持ちに強くかられるようになりました。民主化に伴う混乱、新しい国境線、天井知らずのインフレ、ウォッカの配給、その他多くの危機的徴候を伴った厳しい日々を、私は送っていました。そんな私に食物を育てることは極めてまともでやりがいのある仕事に思えたのです。
しかしながら、市内の集団農場にある 6畝の土地はまるで共同住宅のよう――窮屈で狭苦しい状況でした。これにはとても満足することはできませんでした。
そんな時、駅の新聞売り場で初めてNovii Fermer――ロデール研究所が発行したロシア語版雑誌「ニューファーム」――を買いました。この雑誌の名前を見て、これだと思いました。というのは私自身、都会人女性から農業への転向を考えていた最中だったからです。実際、すぐに勇気をふるい起こして今までの仕事をやめ、田舎で適当な土地を探し始めていました。何故って? 田舎では飢えることがないからです。Novii Fermerのモットー「自分で自分を養え」は、全くその通りでした。
私は東カザフスタン生まれで、一番近い親戚はモスクワとサンクトペテルブルクに住んでいました。そこで、2つの都市の中間地点あたりのどこかに落ち着いて、私は一年中働き親戚たちは夏の間加わるというような農場を始めることに決めました。
私はプスコウ・オブラストで求めているものを見つけました:そこはラトビアと国境を接する、環境的に清らかな場所です。果樹、トウモロコシ、テンサイが育っていて、気候はずっと穏やかに見えました。そこでは放牧場と干し草用の畑は勘定に入れないで、1人4反 を所有する権利がありました。
(編集者注:1990年代の初めまではすべての土地は国有でした。この頃から、国民は地方自治体から土地を所有する 、あるいは賃貸することを再び許されることになったのです。モスクワでは住民は6畝 の所有が認められていました。人口の少ない過疎地プスコウでは4反 が認められていたのです。このような土地所有者は「都会からの避暑」を意味するロシア語「ダシャ」から「ダシュニクス」と呼ばれています。)
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ビニールハウスのトマトが完熟する前に、下の方に成っているものから収穫するナターリャ |
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1991年に地元住民は5人というメドニコヴォという名の小さな村に土地を買いました。その村は幹線道路から4km、国営農場から5km、ラトビアとの国境から50kmもないところにあります。トラクターは代金を支払って特別に頼まない限り、めったに見ることはありません1940年までは52軒の家が建つラトビア人の入植した土地でしたが、今までのところ6軒だけに人が住んでいます。そのうちの3軒は、今私の妹たちと私自身の家になっています。便宜上その3つの「農場」にそれぞれふさわしい「フラソフカ」、「ソスノフカ」「カメンカ」という名前をつけました。
(編集者注:若い人たちは田舎を離れ、町や都会に出て行ってしまったので、多くの村や農場には高齢の年金生活者と「ダシュニクス」だけが住んでいるのです。「農場」という言葉を使ったことについては、おそらくナターリャは皮肉の意味を込めたものでしょう。彼女が自分と2人の妹のために買った3つの農場は、実際放置されていたものだったのです。)
私たちは都会人なので、地元のやり方を学んだり、近所の人たちと親しくなったり適切な作物を育てたりするというようなことは難しいことでした。地元の人にどうやってジャガイモを育てているのか尋ねるべきでした。ここでは彼らは馬やトラクターを賃借りしているのです。そうする代わりに、私たちは鋤や鍬を使って手で植えたのですが、それはきつい作業です。作物の一部は、カザフスタンでは一度も見たことがなかったコロラドハムシ の餌食になりました。また、見たこともないような害虫に大根を全部食べられてしまいました。ライ豆は夏中ずっと棒をつたって伸び続け、初霜の降りる直前の9月にだけ花をつけました。
始めのうち、まだ何もうまくいっていなかった頃は、主にたくさんの本を読んだり、地元の農家の人たちに意見を聞いたり、地域独特の品種を探したりしました。Novii Fermerはそういった最初の何年間かの間、大いに助けになり、インスピレーションを与えてくれました。
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